知る・学ぶ

オフィシャル勉強会【エネルギー 第1回】開催レポート

アースデイ東京2015オフィシャル勉強会「エネルギー第1回」の開催レポートとして、講師、豊崎さんのお話をまとめました。


「双子の核とヒバクの歴史」
開催日:2015年2月4日(水)
講師:豊崎博光さん(フォトジャーナリスト)、満田夏花さん(国際環境 NGO FoE JAPAN理事・原子力市民委員会座長代理)


「1930年代.1940年代:ウラン鉱石から「双頭の鷲」の始まりへ」

ウラン鉱石は、地球が誕生した時に地中や海底に存在する資源の一つで、世界中どこでも存在する。私たち人間が最初にウラン鉱石を発見したのは、 18世紀である。当時は、陶磁器の絵付けをする時の釉薬、糖尿病の特効薬、歯磨き粉などの、生活に密着した使い方をしていた。
ウラン鉱石を科学的に利用することの始まりは、最大で 0.7%しか含まれていない「ウラン 235」という放射性物質に、中性線を当てると核分裂を起こすということの発見からである。アメリカは、既に 1940年の 8月に原爆製造を始めていた。核分裂の連鎖反応については、イタリアからアメリカへ亡命してきたエンリコ・フェルミという科学者が、1944年 12月にシカゴ大学で初めて原子炉を作り証明した。このことは、原子炉で核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功したこと、つまり、原爆の製造が可能になったことを意味する。このことを受けて、アメリカに亡命したレオ・シラードという科学者は、原爆を作った。シラードは、アインシュタインを通して、第 32代アメリカ大統領ルーズベルトに、マンハッタン計画という原爆製造計画を送った。アメリカは、この計画をきっかけに、核開発を開始した。
当時(1930年代〜1940年代)の主なウラン鉱石の採掘場は、チェコスロバキア、カナダ、アフリカ、アメリカの 4つの鉱山であった。特に、アメリカでは、原爆製造計画が始まると、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタ、コロラドの 4州が交錯する地域、先住民族ナバホ、プエブロの人たちの居住地である、フォーコーナーズの鉱山を一気に開拓し始めた。採掘労働者の殆どは、先住民のナバホの人たちであった。彼らは、ウラン鉱石から「ウラン 235」を採掘した残り大半の岩を使って家を建てていた。ナバホの人たちにとって、石作りの家が伝統的な家である。彼らは、採掘場で被爆し、家で放射線を浴び続けていたことで、肺ガンになった。
現在では、ウランを世界 18カ国で採掘している。日本は、原発燃料をアメリカ、カナダ、オーストリア、カザフスタンなどを含めた 11カ国から全量輸入をして、原発の核燃料を作っている。ウラン鉱石は、文化的な利用から始まり、科学的な利用を発見したことにより「双頭の鷲」の誕生となった。

「1953年〜1954年:ついに「双頭の鷲」誕生」

原爆は、ウランを採掘した後、精錬という過程を通って「ウラン 235」90%以上という高濃縮したものから作っている。原子力発電所の核燃料は、ウランを 3%〜5%くらいに薄くすることで完成する。ウラン 1%〜2%というものは、プルトニウムを作るためにある。原爆は、プルトニウムと濃縮ウランを使って作っている。アメリカは、1945年8月 6日と 9日に広島、長崎に原爆を投下した。広島に投下した原爆は、ウランで作った原爆である。長崎に投下したのは、プルトニウムで作った原爆である。この広島、長崎への原爆投下は、核時代へと突入したことを意味する。
広島で原爆が爆発した瞬間は、原爆ドームのやや右上、約 560mのところで爆発した。爆発した瞬間は、太陽の表面温度とほぼ同じ温度、約 8000度の熱を放出した。この時の様子については、「広島には 2個太陽が現れた」とある。その意味は、夏の朝 8時 15分のギラギラした太陽と、もう一つ太陽と同じ表面温度をもつ爆発を指した表現である。原爆の爆発は、65%の熱と 20%の爆風と衝撃波によって、広島や長崎の街を一瞬にして灰にした。残りの 15%は、放射能である。放射能は、風により広範囲に飛び散ることで、放射性降下物となり被爆の被害を拡散する。
当時のアメリカの陸軍の長官ヘンリー・スティムソンは、広島への原爆投下の翌日、1945年 8月 7日付けのニューヨークタイムズの記事に「核分裂して爆発する時は、65%の熱を出す。この熱を使えば何かできるのではないか?何故、原爆を開発したのか?」ということをきちんと公式発表している。しかも、スティムソンの声明は、「核エネルギーの65%の熱は、平和時では様々な動力源に使えるのだが、今回はしかたなく戦時用に使った」と、軍事用に使ったということを明言している。朝日新聞は、8月 8日に「新型爆弾投下された。被害は目下調査中」という言葉で、知っていながら原爆という言葉を一切使わなかった。終戦の翌日、8月 16日付けの朝日新聞の記事には、日本で原爆製造計画を立てた仁科芳雄が「広島と長崎に落とされたのは原爆です」と、初めて公式に「原爆」と書いた。
朝日新聞のスイスの特派員が書いた記事では、スウェーデンの科学者の話として「原爆の技術的可能性は、石炭、石油に変わる新たなエネルギー源となる」と紹介している。これは、同時に、原爆と原子力の動力源という 2つの利用法について書いてあることになる。「双頭の鷲」は、正にこの時に誕生した。第 34代アメリカ大統領のアイゼンハワーは、1953年 12月 8日に国連で「平和のための原子力(Atoms for Peace)」と呼ぶ演説をした。アメリカは、1954年 2月に世界で初めて船の動力源として原子炉を積んだ、原子力潜水艦ノーチラス号を作った。原子力の平和利用は、原子力発電の始まりである。「双頭の鷲」とは、一方で核兵器を作りながら、もう一方で動力源を作ることを指している。

「1952年〜1953年:原爆から水爆の時代へ」

世界は、広島・長崎の投下という原爆の時代から、原爆の威力の 1000倍の威力を出す水爆の時代へと突入していった。アメリカに亡命した科学者エドワード・テラーは、水爆を可能にした。アメリカは、1952年 11月にマーシャル諸島ビキニ環礁で、世界初の水爆実験「ブラボー」を実施した。その 8ヶ月後にソ連では、1953年の 8月にカザフスタンにあるセミバラチンスク実験場で最初の水爆実験と同時に原爆の開発もした。マーシャル諸島ビキニ海東 160kmの辺りでマグロ漁をしていた焼津の漁船「第 5福竜丸」の乗組員は、アメリカによる水爆実験により被爆した。同じ被害は、「第 5福竜丸」からやや北東に位置する、ロングラップ島の島民 82人も放射性降下物により被爆を被った。放射性降下物による被爆の症状は、β線やガンマ線による火傷、例えば、ホカロンで低温火傷をするのと同じで、皮膚の中の組織を焼く火傷である。火傷の箇所は、放射性降下物が付き易い一番汗をかくところである。ロングラップ島では、4cmも放射性降下物が積もった。
広島、長崎に次いだ水爆実験による被爆について「邦人漁夫ら原爆実験の遭遇」という見出しで 3月 21日付けで報じたのは、読売新聞であった。この時、読売新聞は、1954年 1月 1日から「ついに太陽をとらえた」という名前で、原子力エネルギーの平和利用という一大キャンペーンとして、アメリカの記事をそのまま訳したような内容の掲載を 1ヶ月間実施していた。読売新聞の正力松太郎は、原子力発電を利用して総理大臣になろうとしていた。彼のところに原子力エネルギーについての情報が入ってきたのは、彼がアメリカ CIAの協力者だったからである。読売新聞は、原子力の平和利用の推進している時に水爆による被爆被害が生じたことで、「悪い使い方をすれば核兵器になるし、良い使い方をすれば発電源になる」と、いうことを強調していった。読売新聞では、原子力エネルギーのキャンペーンの一つとして、5月になるとアメリカから原子力発電の関係者を呼んで、日比谷公会堂で大演説会をして、それを日本テレビが中継した。この当時の日本では、プロレスしか生中継していなかった。読売新聞は、日本テレビのネとワークを使って、日本全国に原子力の平和利用の講演会をテレビ中継した。原子力エネルギーの平和利用の推進は、日本テレビと読売新聞が一緒になって広がっていった。同じ時、1954年 3月 1日、正式には 2日に総理大臣となった中曽根康弘は、駆け込みで原子力予算として出した 2億 3,500万円を国会で成立へと導いた。この原子力予算の 2億 3,500万円という数字は、「ウラン235」と同じである。この時は、正に日本の原子力エネルギー利用の始まりとなったことを表している。この一連の動きは、アメリカの戦略の一つであったと判明している。
アイゼンハワーを 1953年に第 34代アメリカ大統領に押し上げたのは、アメリカの原子力産業と軍事産業である。原子力産業とは、マンハッタン計画の原爆製造に関わった企業のことである。アイゼンハワーは、1953年 12月に「Atoms for Peace」の演説をして、原発を作る流れを作り、その後ろに産業が付き、原発を世界にどうやって売ろうかということを考えていた。日本は、アメリカの原発を世界に普及しようという動きに真っ先に乗った。ソ連のスターリンは、アメリカと同様に原子力発電を何とか同盟国に売ることを考え、1952年に原子炉の開発を始めた。アメリカもソ連も原発を売る目的は、核燃料も全部アメリカとソ連だけで作るからである。アメリカは、特に、アジアでターゲットとしているのは日本と韓国である。韓国では、1950年代当時、原子力発電について正確に理解している人は誰もいなかった。当時の韓国メディアの朝鮮日報、東亜日報などは、日本と同様に、原子力発電についての記事はアメリカから届いた記事をそのまま訳して書いていた。

「1956年〜1957年:大気圏内核実験による影響」

水爆実験の次は、1950年代の中頃にアメリカ、ソ連、イギリスの 3カ国による大気圏内核実験の時代となった。大気圏内というのは、地上、空中、水中を指す。大気圏内核実験は、放射能を世界中に拡散するため、世界的に大きな問題となった。
放射性降下物は、遠くに流されて、長い時間かけて落ちる。落ちたものは、牧草に入る。牧草は、食べた牛の乳に入る。放射性降下物は、牛乳として私たち人間の体に入る。放射性降下物は、“死の灰”とも呼ぶ。“死の灰”とは、読売新聞が作った言葉である。
アメリカは、1954年 3月1日〜5月 14日までの 2ヶ月間で、マーシャル諸島ビキニ環礁とエニウェトク環礁に於いて、6回水爆実験をした。合計の爆発威力は、広島に投下した原爆で換算すると、3,200発分である。この実験は、世界中に放射性降下物を拡散する結果となった。この当時、アメリカでは、世界 122箇所に放射性降下物を感知する測定器を置いて調査をした。
日本では、青森県の三沢、東京の横田米軍基地の中と、広島、長崎の原爆の調査室の4箇所に設置した。アメリカによるマーシャル諸島ビキニ環礁水爆実験の影響で、5月 15日までに日本全国は“死の灰”に覆われた。それ以降は、東京と京都に降った雨の中から、何万カウントという放射性物質を検出した。これまでの広島と長崎という場所の点ではなく、日本全体が初めて、面として最初に大きな被爆を受けたのは、この 1954年の水爆実験であった。

「1954年〜1956年:世界初の原子炉が誕生、世界へと広がる」

ソ連は、1954年 6月に原子力発電でオブニンスクという街全部の電気を賄った。イギリスでは、1956年以降コールダーホール型という独自の原子炉を作り始めた。アメリカは、原子力潜水艦に搭載するような小さな原子炉しか持っていなかった。
慌てたアメリカは、1954年 6月 30日にアメリカの原子力法の改正をした。原子力法の改正点は、軍が中心になっていた核開発について、民間企業に対して門戸を広げたことである。この法改正は、アメリカの原子力発電の開発を一気に早め、世界に原発を売り始めるきっかけとなった。
原子力発電の建設目的は、使用済み核燃料からプルトニウムをとり核兵器を作ることであり、どれも発電はオマケである。ソ連型は、チェルノブイリ原発事故の時と同じ、全体を覆う格納容器の無い黒煙型原子炉である。アメリカで最初に作った原子炉は、格納容器の中に原子炉を入れて、大量の水を使って冷却し蒸気を作る軽水炉を作る。
アメリカで作った原子炉は、同盟国に研究用原子炉として、大学機関などへ燃料付きで送る。日本は、一番初めにこの原子炉を買った。

「原子力燃料」

核燃料は、1本が直径約1cm、長さ 3m〜4mくらいの燃料棒 300本を 1つに束ねたものが 1個の燃料単位となって、原子炉の中に入っている。
日本は、全量を世界 11カ国から発電用原子炉のウランを買って、茨城県の東海村と大阪の泉南で濃縮ウランを作っている。濃縮ウランから核燃料を作る場所は、東京に近い所だと横田基地にある。完成した核燃料は、運搬用トラックの前後にパトカーが付いて夜中の 3.4時とう時間に運んでいる。運搬中は、ガソリンを運ぶトラックも一緒に走っているため、とてつもない事故の可能性と隣り合わせである。
原子力燃料 1個は、石炭にすれば 1,780パウンド、149ガロンの石油に匹敵する。家族 4人で 1年間に必要になるエネルギーは、これ 1個で賄うことはできる。
燃料 1個 9gを作るためには、ウラン鉱石 60kg採掘して、59kg分を途中で捨てながら作る。私たちの原子力発電は、このようにして動いている。

「原発事故から地域文化も消える」

アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所は、理論的にはあり得ても多分生じないと見なされていた炉心溶融事故を 1979年 3月28日に起こした。この事故は、放射能が北西の方に流れたことで沢山のガン患者を出した。地元住民は、事故から 5年後に裁判をおこして負けてしまった。理由は、電力会社と州政府が放出した放射能は少ないと主張して、病気との因果関係を証明できなかったことである。この事故は、世界に対して、原発は本当に良いのかということを問うきっかけとなった。
それからもう一つの事故は、1986年にソ連で起きたチェルノブイリ原発事故である。
放射能による汚染地域は、住民を全部追い出して、家を解体すると汚染物質が埃と一緒に広がるため、そのまま村ごと他の所から運んできた土で埋めて消していく。ベラルーシとウクライナでは、汚染した数千という村を消した。道路だけは、生活物資を運送するために残す。森は、野イチゴ、キノコ、薪用の木など、地元住民にとって生活文化と密接につながっている場所である。その場所は、放射能汚染のため立ち入り禁止となっている。
日本政府は、チェルノブイリ原発事故現場から 8,000kmも離れているため被害はないという見解を示した。放射性降下物という“死の灰”は、事故後 1週間経った頃に、大阪の有機栽培のお茶の葉から検出された。
最終的には、地球全体を汚染した。チェルノブイリの中心から一番外側にある汚染地域は、スウェーデンとノルウェーである。この辺りは、サーミという先住民たちが、トナカイを放牧しながら暮らしていた。トナカイの肉を食べて生活してきたサーミたちは、事故後、それまでのような生活はできなくなった。深刻な問題とは、親と子どもが違うものを食べなくてはいけないということである。親は、トナカイの肉を食べている。親としては、伝統的な食生活の在り方として、自分の子どもにトナカイの肉の味を伝えたかった。トナカイは、放射性降下物で汚染した草を食べている。そのため、子どもは、全く別メニューを食べなくてはならない状況にある。おそらく、次の世代は、トナカイの肉を食べなくなる。このことは、サーミの文化や伝統が消えることを意味する。

「福島第一原発事故の汚染から、これからのエネルギーについて考える」

福島第一原発事故は、日本国内のみならず、もう一つ大きな汚染事故を起こした。事故後、ヨウ素は、3月 15日までにアメリカの西海岸へ到達した。その後は、ヨウ素が 3月27日までに北上して、グリーンランドからヨーロッパに到達して、4月に入ると南下してオーストラリア、フィジー、インドネシアへと到達した。福島の原発事故は、例外に漏れず、地球全体、太平洋をも汚染した。
アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国、という、この 5カ国が 1945年〜1980年までの間に行った 300回近い核実験の放射能は、成層圏まで上がったのが降り落ちて地球全体に拡散した。その殆どは、海洋に落ちた。海は、地球の 2/3を占めるため、当然、放射性降下物の落ちる確率は高くなる。一番汚染の酷い所は、千葉県沖から北海道の東沖である。これは、これまでのもの凄い数の核実験に起因している。特に、福島第一原発事故は、2011年 3月 11日以降、太平洋全体を汚染していることになる。
核の歴史を通して原子力は、正しく「双頭の鷲」であり、それぞれの核被害を引き起こす危険を孕んでいる。私たち人間は、1941年にプルトニウムを発見して以来、2万 4,000年(半減期)続く放射能汚染の只中に、生活している。エネルギー問題を考える時、私たちは、全体の流れをよく理解することから始まる。